事情を話すと「お金を貸してあげる。
買ったほうがいいわよ。
それはチャンスじゃないの。
いつまでもそのマンションに親子でひしめいて暮らしていくわけにはいかないでしょ。
そこが七千万とはいわないまでも、六千五百万円程度で売れたらなんとかなるわよ」といってくれた。
剛胆な母の提案にがぜんその気になった私は、渋る夫に「二十畳のリビング」をちらつかせて説得し、販売会社に購入の返事をした。
家族四人が暮らすには十分すぎるほど広い4LDK。
ほぼ同世代で、似たような家族構成の世帯ばかりが集まっているために、子どもたちもすぐに友だちができた。
何よりも広々とした部屋はとても気持ちがよかった。
スポンサーとなってくれた母もさっそく見にやってきて、「いい部屋じゃないの」と満足げに見まわした。
そのあとで「当分はこのマンションに腰を落ち着けなさいよ」と厳しく釘をさしたのだが……。
もちろん私も十年は住むつもりでいた。
いつも「あともう一部屋あったら」とため息をついてきたのだが、今回ばかりは広さでの不満はまったくない。
それに機能的だ。
だがしばらくすると、苦労して手に入れたはずの高級仕様のそのマンションに、なんたることか、少しずつだが不満がたまっていった。
まず交通の便が悪かった。
ちょっとした買い物でも、バスで駅まで出なくてはならない。
図書館、児童館、屋内プールといった公共施設を利用しようにもバスと徒歩で三十分以上かかる。
それに東海道線の激しいラッシュによる体力の消耗は予想外だった。
毎朝呼吸もできないほど込んだ電車に乗って通勤し、五時の終業とともにダッシュで駅まで走って電車に飛び乗り、駅から自転車を飛ばして保育園にお迎えに駆けつける日々に、私はへとへとになっていった。
帰宅してからももうひと仕事が待っている。
食事をつくって子どもたちに食べさせ、お風呂に入れて、洗濯して、片づけて、翌日の食事の準備をすると深夜一時をまわる。
翌朝は六時前に起床し、七時には家を出て保育園をまわっていかないと、九時の始業に間に合わない。
都心のマンションにいたときには、息抜きに映画や芝居を見に出かける余裕があったが、川崎に越してからというもの、休日はたまった家事を片づけるだけで精一杯。
ストレスがたまり、体力的にも疲れ果てた私は、引っ越してから一年で勤めをギブアップして、自宅を事務所にして仕事を始めた。
かっこよくいえばSOHOである。
退職金でパソコンとFAXを買い、次女の子ども部屋にするつもりだった部屋に机を置いてライター業を開店した。
通勤時間はゼロ。
体力的にはずいぶん楽になったが、家にこもってばかりいては仕事にならない。
打ち合わせだ、取材だと出かけると時間もかかる。
帰りが遅くなるとバスがなくなり、タクシーは一時間待ちの長蛇の列。
都内でお芝居を見たあとに、ちょっと一杯飲んでいこうかとはいかなくなった。
以前は子どもを寝かせたあとに一人でふらりと出かけ、駅前の本屋で立ち読みして、CDを物色してくる楽しみがあったが、郊外型マンションの周辺には何もない。
気楽に飲みにいったり、大人が食事できる酒落た店などどこにもない。
まさにベッドタウン。
サラリーマンが寝るために帰ってくる場所だから、周辺に遊ぶ場所など必要ないのである。
残っている女、子どもにとっては、たしかに安全に日常生活が営める場所である。
だから遊興施設がないなど、そんなささいなことを気にするほうがおかしいし、贅沢すぎると自分をいさめた。
そう思いつつもさびしく、そうか、都心を離れることに夫が渋ったのはこういうわけだったのかとやっとわかった。
環境も気になっていた。
窓を開けると煙突からもくもくと煙があがる工場群と、二十四時間渋滞している産業道路が見える。
緑がいっぱいの町に住みたいなどという贅沢はいわないが、子どもを育てる環境として抜群というわけにはいかないと外の景色を眺めるたびに不安になった。
たぶんそういう取るに足らない(でも私にとっては結構重大な)不満がたまっていたことも導火線になったのだろう。
川崎に越してから七年。
阪神大震災によって、私の「一戸建てに住みたい」、そして「都心に戻りたい」熱が爆発した。
私たちの住みたい家はどんな家?震災にあった実家の手伝いから帰ってきた翌日、私はチラシと『住宅情報』を見てあちこちの不動産屋に電話をかけまくった。
「あの、おたくのチラシにあった目黒の家を見たいんですけれど」「は、いつがご希望ですか」「できれば今日。
だめだったら今週中」そうやって東京都内の一戸建てを何軒か見て歩いた。
下調べのつもりである。
条件はいろいろとあったが、まずは価格が問題だ。
八八年のバブルがはじける直前に九千万円で買ったマンションは、みるみるうちに値崩れしていた。
いったいいくらで売れるのか見当もつかない。
前のマンションはバブルのおかげで、買った値段よりも三千万円以上高く売れたが、こんどは同じくらいの金額を損してしまうだろう。
しかし、私が会社を辞めたときの退職金と、十数年にわたって私の給料の大半を積み立ててきた貯金が、高金利のおかげで相当額になっている。
フリーになってからは「明日仕事がなくなるかもしれない」という不安から、貯蓄額も増やしていた。
全部はたいて、なおかつ夫も私もめいっぱい借金すればどうにかなるのではないか。
例によって「なんとかする」「どうにかなる」の楽天的見込みで、私は突っ走った。
そこで土地・建物込みで一億円程度の物件を不動産屋に依頼した。
東京都内の土地の価格は急激に下がっていて、バブル前よりも少し高いくらいにまで落ち着いていた。
それでも一億といえば、冗談じゃない金額である。
私ほど身の程知らずというか、無鉄砲というか、大胆な人間はそう多くはないはずだ。
だから競争はそれほど激しくないのではないか……などという予想はまったく甘かった。
いや、世の中にはわが家と同じことを考える人がゴマンといたのである。
ちょっといいかなと思った物件は、夫と一緒に見にいこうとスケジュールをあわせているうちに「売れてしまいました」といわれてしまう。
余裕を持って選べる物件には、どこか難がある。
そのうち不動産屋にも力関係があって、優良物件をきちんと押さえて紹介してくるところと、とんでもない物件ばかりをいってくるところがあると気づいた。
その時点で“下見“を終え、大手一社にしぼって担当をつけてもらい、本腰を入れて家探しを始めた。
大手不動産会社のHさんという担当者は勤めて二年目の若者で、一見したところ頼りなさそうではあるものの、勉強家で礼儀正しく感じがよい好青年だった。
それまでの不動産屋のように押しつけがましくなく、こちらのプライバシーに踏み込んだ質問をしてきても嫌みではない。
不動産屋というのは、売り手買い手の私生活に相当に踏み込んだ情報を得ていなくてはできない商売である。
それを上手に聞き出し、安心してしゃべらせるのが仕事。
とくに女性相手にそれができるかどうかで勝負は決まる、と家探しをしている間に学んだ。
その点、Hさんは私のような女相手にはうってつけである。
相当のわがままにも、にこにこしてつきあってくれる辛抱強さは得難い。
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